マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

文脈をあたえる

 文章を書かないと肩こりがひどくなりそうなのでちょっと吐き出しておく。といっても、語ることはなにひとつない。今週も遊びほうけていたら、平日が終わろうとしている。好きに仕事をやらせてもらっているのはありがたいことだが、他の人に申し訳ない気分になってくる。ごめんね。


 あまりに暇なので、「幸せってなんだろ」とか「人生の目的ってなんだろ」という余計なことを考えるようになった。正解なんてないし、数えきれないほど多くの人間が抱えてきたテーマなのでそれが記入されたわら半紙はしわくちゃになっている。懸命に折り目を伸ばして伸ばしてじっとみる。傍らで貨物列車が流れていく。今日は赤い。

 おそらくは、人間は文脈の中を漂う魚だ。一匹一匹がそれぞれ違う文脈を所有しており、あるときはカードのように交換し合い、またあるときは風呂敷のように大切なものを包む。もしくは双眼鏡のように遠くを見つめる。文脈は非常に大事なのものだが、他人と共有するのはかなりの苦労を要する。それは自分の手あかにまみれていてなんだか汚いし、みみずがのたうちまわっているような字でサインされているため、読み取ることが難しい。それゆえ、時には「自分と他人は別もの」と割り切ることが良いこともある。理由が分からないくらいその人がばかなことをしでかしていても、きっと何かの文脈によって操作されている所作であるから、気にする必要はない。

 文脈を形成することが生きる目的だと早合点している。あたりに散らばるものに名前をつけ、それなりの役割を見いだす。基本方針を定め、それを中心におき外へ出かける。マンモスを狩りにいく原人たちはGoogleストリートビューを駆使して最適なソリューションを見いだす。それを待つ妻子はクックパッドでエーテルをつくる。なにひとつ間違ったことはない世界。すこし前までは所有することがゴールだと思われていたが、どうやらそうではなさそうだ。技術は発展し、情報は遍在する。自分の頭のなかに百科事典を収めておく必要はなくなった。それなら人はどうやって個として価値を発見するのか。その方法が消化または昇華して情報を整理し、自分なりの文脈を形成することなんだ。

 そう思うよ。