マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

Ingress初心者日記 第七回「純粋レゾネーター批判」

 いつの間にか下火になっていたingress熱は、気がづいたら再び燃えていた。くすぶっていた薪にふうふうと息を吹きかけると炎がちらつくのと同じように。果たして吹き入られた空気が何だったのか。よく分からない。

 今日は朝から街へ出かけ、乱立する青ポータル群を焼き払い、緑ポータルのリンクをつなげた。XMPバスターのエネルギーは周囲を揺るがし、突き刺したレゾネータの鼓動は大地に響いた。生成された多重CFの光は冬の晴れた空にどこまでも広がっていった。そんな日だった。

 画面上のXM残量は、決してスマホのバッテリー残量ではない。バッテリーは周囲のエネルギーによって回復はしない。二時間ほど遊んでいると電池がきれかけていたため、近くの喫茶店に避難した。いつものコーヒーを頼みカップを持つと、窓際のカウンター席に移動する。荷物を下し椅子へ腰掛けると、テーブル下のコンセントでスマホを充電する。モバイルバッテリーを買ったら負けだと思っている。充電が完了するまでの間に持って来た本を読むことにした。

 木田元の『反哲学入門』は一年前に購入してから折に触れて読み直している。分かりやすい哲学の解説書のはずなのに、どうにも理解できないところが多いからだ。しかし、今回はどういうわけか、するすると文章が頭に入ってくる。理屈は分からない。喫茶店からハックできるレベル8のポータルが僕をそうさせているのか。無限リチャージを挟みつつ、カントの思想をつまみ食いする。

 当時、人間の認識についての考え方は二つの立場があった。人は生まれもって理性(認識)を携えているという考えと、認識は経験によって生まれるという考え、つまり先から派と後から派の二つだ。みなそれぞれがもっともそうな意見を言いあうが、カントはその両極端な考えを持たず、理性的認識が有効に機能することと機能しないことがあると唱えた。そのあたりの線引きが『純粋理性批判』で述べられているそうだが、僕がたどりつくのはいつになることか。

 全ての認識が経験によって定まるわけではない。この世界の構造にも、少なからず客観的妥当性が含まれているはずだ。われわれの認識している世界は、われわれとは独立して存在している世界(物自体の世界)ではなく、われわれのフィルターを通して現れている世界(現象の世界)である。それがカントの唱える認識観だ。

カントの考えでは、われわれが認識するのは、「物自体の世界」ではなく「現象界」であり、これは人間の認識能力に特有の制限を通りぬけて現れ出てきた世界なのです。

「これってスキャナーを通して見たingressの世界と同じだよな」

 そうだ、ingressだ。そのようなコペルニクス的転回ならぬコロンブス的ごり押しにより、僕の理解度は高まった。木田さんはさらに語る。

 カントの考えでは人間の認識能力には、受け入れ(直感)の能力と、規定と結合(思考)の能力とがあり、その二つが協力し合って、与えられた材料を現象界に形成するのです。

 受け入れとはポータルのことだ。スキャナー上で光っているだけで「そこに在る」と直感できる。規定と結合はリンクとCF、MODやポータルのレベルだ。本を読み進めると、直感にはさらに空間と時間の二重の形式が、思考には量・質・関係・様相等のカテゴリーに分かれている。空間と時間は、単なるポータルの住所の表現法ではなく、われわれがポータルを認識するときに必要な形式のことだ。思考の四つのカテゴリーについては今回は詳しく触れないが、重要なのは世界は認識のありようによっていくらでも変化するということだ。

 いつの間にかコーヒーは空になり、スマホのバッテリーは十分なエネルギーを蓄えた。僕はポータル群の中から多重CFのラインになりうる軌跡を見つけると、何かのしるしのように指でたたき、カウンター席から立ち上がった。

反哲学入門 (新潮文庫)

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