パリは—言うまでもないことだが—日本の東京のような記号である。象徴と記号の違いについて、僕に説明を求めるかもしれないから、僕は「僕」の言葉を借りてみようと思う。象徴は変換不可能で、記号は変換可能であると。ああ、やはりこの文章はなかったことにしてほしい。僕が言いたいのは東京、またはパリの均質的な無機質さであって、手の届かない規模の大きさであって、人が密集しているにも関わらず孤独を感じやすい不可思議な空間であるということだ。
リルケは一九〇二年の八月の終わりにパリへ行き、アパートで下宿した。彼は一八七五年十二月生まれなので、パリへ渡ったのは二十七歳のころだ。僕はてっきり、十代の若者が大都会へ上京しているのかと思っていたがそうではないらしい。彼には妻も娘もいた。『ロダン論』を書くために彼は妻子を実家へ預け、パリのロダンへ会いにいった。それだから、パリでの生活は夢を追うような無邪気な若者のそれでは決してなく、現実問題が背後から迫ってくるような、非常に緊迫した生活だったのかもしれない。
『マルテの手記』は、そうしたパリでの生活を若者に投影させた小説である。主人公のマルテはデンマークの貴族の家に生まれた無名の詩人であり、日がな詩を書いている。しかし、そのような全貌が一挙に明らかになる事はなく、小説は終始淡々と進んでいく。手記はやはり手記でしかなく、マルテの記憶や思考の断片があちらこちらに散らばっているに過ぎない。
全く意味のない小説だった。そうやって締める事もできる。一見すると関連性のないことがらばかり述べられている気がするからだ。しかし、この文章は死というフィルターを通すと、振幅が整い波長が合い、リズムが整理されきれいな和音が発せられる。マルテはひたむき—ではないかもしれない。死には誰しも目を背けたくなるものだから—死に向き合って、時にはパリから発せられる臭気を敏感に感じ取り、時には過去の記憶からテーマに沿ったものを抜き出していく。
ねえ、マルテ、わたしたちはだれもいつかはいなくなってしまうけれども、みんなはせかせかと忙しがっていて、だれかがいなくなるようになっても、それに注意を向ける者が一人もいないらしいのね。流れ星が飛んでも、だれもそれを見ようとはしないし、心になにか念じる人がいないようなものよ。お前はなにか願いごとをするのを忘れないでちょうだいね、マルテ。願いごとをするのをやめてはだめよ。かなえられることはないとは思うけれどもね。でも、わたしたちが生きているあいだじゅうつづいて、かなえられるまでは生きていられないような願いごともあるのだからね。
彼は大量生産の死を求めず、個性のある死を書き留めた。また、個性のある死が生まれるであろう個性ある人物を描いた。
しかし、やはり僕にとっては意味のない手記だった。そもそも、これらの文章が僕に特効薬的な効能を示す事を期待していない。意味のない言葉は意味のないカプセルによって封じられており、三回の食後に少しずつ摂取していくことで初めて意味をもつのだから。その時がいつくるのかは知らないが、リルケの言葉はしこりのように体中にのこることだろう。そういう力を彼は持っている。
- 作者: リルケ,大山定一
- 出版社/メーカー: 新潮社
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