マトリョーシカ的日常

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【書評】そのほうが楽になるのなら、罪を認める覚悟()をさっさと持てばいい/『罪と罰(下)』

 『罪と罰』を読み終えた。ただ読み終えただけだ。登った山があまりにも大きすぎて、どこから眺めてもフレームの中に入らない。そんな印象を持った。本を読んでここまで疲れたのは久しぶりで、読後の感動や衝撃などの感情が湧き出る余地もない。文字を必死に追っていったらなんとか終わった。

 テーマとなるのはやはり罪と罰だ。この話は様々なひとが罪を抱えていて……ってこれは前にも書いた気がする。そう、罪はラスコリーニコフの殺人だけが主ではないのだ。少女をだまそうとしたピョートルしかり、主人公の妹にちょっかいをかけたスヴィドリガイロフしかり、子供たちをどなりちらすカテリーナしかり。作品は、彼らの罪だけではなく、罪を犯した彼ら受ける罰も描写されている。それは、ギロチンとか焼き土下座とか外的なものではなく、どこまでもどこまでも深い、反省だ。

 どうでもいい話をする。

 ずっと幼い頃に、友達の家の菓子パンをこっそり食べたことがあった。家に呼ばれて、目の前に置いてあったパンがとてもおいしそうだったからだ。食べていたら、家のひとに見つかって叱られた。僕はひどく苦しくなって、家を逃げ出した。思えば、あれ以来あの友達の家には行っていない。僕は深く深く反省したような気がする。当時から日記を書いていれば、ごめんなさいを書き連ねていたかもしれない。しかし、もう二十年ほど昔のことなので、真実のほどは定かではない。どうせ適当に脳内で脚色しているのだろう。

 これもずっと前の話だが、習い事を仮病で休んだことがあった。いつもいつも行きたくないと思っていた習い事だった。「今日は行きたくない」と親に言ったら、あっさり「いいよ」と答えてくれた。それで、家でゴロゴロしていたのだが、どうにも体がむずむずしてくる。義務づけられていたこと(子供心に)を休むことに、ひどい罪悪感を抱いたのだ。結局家の庭で泣きながら練習した。よく分からない男だ。

覚悟?

 

 何もかも、すっかり。ぼくにその覚悟ができているのだろうか? ぼくは自分でそれを望んでいるのだろうか? それは、ぼくの試練のために必要だという! 何のためだ、こんな無意味な試練が何のためなのだ? そんなものは何になるんだ、そんなものはいまよりも、二十年の徒刑が終わって、苦痛とばかげだ日常におしひしがれ、すっかり老衰しきってしまってから、自覚したほうがいいのではないか。それなら何のために生きる必要があるのだ?

 罪を認めて、まっさらになる覚悟。確かに怖いけど、もしかしたら今よりも精神的に楽になるのかもしれない。死に至る病は、罰を受けることそのものではなく、罪を犯した裁きを待っている間のそれだ。楽になるのなら、覚悟なんてかっこいい言葉は使うことが出来ない。不思議だ。

 自分が罪人である、いけ好かない悪い奴だという自覚を先延ばしにすることは、果たして意味があるのか。罪を認めることはゴールすることだ。「ごめんなさい」は底辺で、上昇の起点だ。上がるのなら、早いほうがいい。さっさと死に至ろう。

 自分でもなにを考えているのか分からなくなって来た。ラスコリーニコフは、殺人の動機を結局は「百の善とひとつの悪」理論でまとめようとした。しかし、彼は凡人だった。普通の大学生だったのだ。ボタンをひとつ掛け違えただけで、人生はこうも変わるとは神様はつれない奴だ。


 まとまらない話だ。

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)