マトリョーシカ的日常

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【書評】「非現実的に凡庸」と、「非凡人」がたどる運命/「罪と罰」【感想】

長編小説。

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 病院か牢屋にぶちこまれたら、長編小説を読もうと決めている。決断したのがいつなのか、覚えていないがそんな雰囲気は確かに心の内に秘めていた。ホリエモンも長い拘留期間中に多くの本を読んだようだ。いいなあ。

 今のところ体を痛めてないし、悪いこともしていないが、長期休暇になったので上記の思惑を実行することにした。ドフトエフスキーの『罪と罰(上)』を読んだ。どうしようもない大学生のラスコリーニコフが、金貸しの老婆とその妹を殺してしまう話だ。犯行は偶然に助けられて、誰に知られることもなく終わった。ほっとする大学生だが、肉体的な疲労に、罪の意識がかぶさって奇妙な精神状態になってしまった。強気になったり、弱気になったり、気分の上下が激しい。そんな折に、離れて暮らしていた彼の母と妹がこちらにやってくる。妹が婚約相手と生活をはじめるためだ。

 なぜラスコリーニコフは老婆を殺すことを考えたのか。それが不思議でならない。貧しい生活が彼をそうさせたのか。たしかに、彼の生活は困窮していた。家賃の不払いが続き、身の回りのものを老婆の質に入れ、金を借りる生活を送っていた。しかし、犯行前に彼の母から「近いうちに送金します」という手紙が届くのだ。僕は読みながら、「おお、よかったねー」と安心したのだが、彼はちがった感想を持ったようだ。

 老婆を殺すことが世のためになると考えたためだろうか。犯行前に、彼は飲食店で二人の男が老婆について話し合っているのを耳にした。聞くところによると、金貸しの老婆は妹と一緒に住んでいるのだが、その妹をさんざこきつかっているらしい。妹は老婆のために、昼夜働き通している。しかも、老婆は「自分が死んだら今の財産はすべて修道院に寄付し、末代まで供養するように」と遺言を残しているそうだ。

 「老婆を殺すことで、妹は救われる。そして寄付されるはずの金を世間に還元すれば世のためになる」

 そんな2人組の会話が、ラスコリーニコフの頭に刻み込まれたのだろうか。やはり、やはり分からない。もっと強い目的や衝動がなければ、人を殺すこと等できないはずなのに。

 もしかしたら、彼の猜疑心溢れるその性格がどんどんと悪い方向へ向ってしまっただけなのかもしれない。上巻を読み終わっても、僕はなおラスコリーニコフの性格をうまくつかむことができない。地頭はよく、犯行前はだいぶいろんな物事を計画していた。しかし行う算段になると、逃げ道を設定していなかったり、道具や金品の処理などで手詰まったり、いろんな障害にぶち当たっていた。幸運に助けられて、なんとか逃げ果せることができたのは不幸中の幸い(?)だったが。

 

非凡と平凡と現実と非現実

 気になった部分を挙げてみる。ラスコリーニコフの論文に対して、男が言及するシーンだ。

 問題は、彼の論文によるとすべての人間はまあ«凡人»と«非凡人»に分けられる、ということにしぼられているんだ。凡人は、つまり平凡な人間であるから、服従の生活をしなければならんし、法律をふみこえる権利がない。ところが非凡人は、もともと非凡人な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、かってに法律をふみこえる権利をもっている。

 この論理には、ラスコリーニコフ自身の「俺は非凡だぜ」という、うぬぼれが残っているように感じた。自分は他人とは違う。常に状況を俯瞰できる。衛星中継でサッカーを観るように。「なぜ、パスを出さないー!」と叫ぶ。サッカー選手の背中に眼はないのにも関わらず。非凡と平凡。そうやって二元論で語られる本をごく最近に読んだ。『羊をめぐる冒険』だ。主人公の前に現れた一人の男は、彼をこう評価する。

 人間をおおまかに二つに分けると現実的に凡庸なグループと非現実的に凡庸なグループに分かれるが、君は明らかに後者に属する。これは覚えておくといいよ。君の辿る運命は非現実的な凡庸さが辿る運命でもある。

 こちらは、人間はみな凡庸だと述べている。そして現実的と非現実的でグループ分けがなされている。この『非現実的な凡庸さが辿る運命』というのが、物語終点のあれだとしたらば、あまり良好な運命ではない。非現実さは現実世界では空虚であって、空振りであり三振であり無意味なサクセス、机上の空論だ。考えすぎるひとにとっては、この世界は無価値なものになってしまうのか。どうなのか。

おわりに

 上巻の最後、思いがけない人物から、主人公は殺人の疑いをかけられてしまう。果たしてどうなるのか。

 とにかく、続きを読もう。週末までに読めるかな。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)