限りない夜という言葉が通用するのは物語の中だけで、現実はそうはいかない。どこかに終わりはあるし、始まりもある。暗がりにぽっかり浮かんだフィールドで素振りをするのがお気に入りの猫は、果たしてどうだろう。
意味のない終点に羊がいた。どうしようもない終わり方だった。『羊をめぐる冒険』は、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』の続編だ。ジェイズバーで飲んだくれていた僕は翻訳の仕事を行うようになり、絶えず変化する現実を以前よりは受け入れられるようになっていた。しかし、友人の鼠は違った。彼は突然に僕の前から姿を消した。
そうして、鼠から一枚の写真が送られてきたところから物語は始まる。写真に写っていた特殊な羊に興味を持った黒服が、僕のもとへやって来た。半ば脅しのような手法で僕を羊探しの旅へと強要する。耳のきれいな女性とともに、僕たちは北海道へ進む。鼠からの手紙の消印が北海道だったからだ。
虚しい小説だった。読み終えたあとに、脱力感が襲ってきた。いったい、この話は僕になにを求めているのか。単なる哀愁を漂わせたいだけなのか、羊オタクにさせたいのか。
引用したい箇所をあげるとすれば、以下か。弱さについて言及しているシーンだ。
「弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにさ。俺は十代の半ばからずっとそれを感じ続けていたんだよ。だからいつも苛立っていた。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じ続けるというのがどういうことか、君にわかるか?」
腐るというのは必ずしも悪いことではない。時間経過に従って、組織の内部構造が変わってしまうだけのことだ。それはひと月ごとにかわる女性の細胞もそうだし、半年で変わる会社の人間模様もそれに等しい。発酵食品は腐敗をコントロールし、よりおいしいものを食すために人類が編み出した叡智だ。腐敗と発酵は同じことだ。弱さと発酵もまたしかり。
だから、弱さを受け入れるとか、弱さに向き合おうとか、そんな言葉は全くもって動物クッキーなのだ。悪い要素だけではないはずだから。鉄分を多めに含んでいるはずだから。弱さは弱いだけ。それ以上でも以下でもない。発酵や腐敗はそれでしかない。僕は僕だし、彼は彼だ。
「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作りあげてしまったようだね」
おおかたそういうことだ。
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