マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

【書評】詩は読んではいけないし、聞いてもいけない。/「地獄の季節」【感想】

ランボオ怒りの休日出勤。

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 これほどまでに何も入ってこない本は初めてだった。いったいどのあたりが『地獄の季節』なのかも分からないし、そもそもランボオがどんな奴のなのかも知らない。いや、あえて知ろうとしなかった。僕の中のランボオはランボー怒りのなんちゃらのランボーであって、筋肉モリモリマッチョマンの変態なのだ。


 本の内容に一切触れることなく書評を書くことを試みよう。まずは見た目だ。この本は赤い。表紙は白地に赤い色合いが使われている。岩波文庫は色によって種類分けがなされている。青は日本思想や科学と歴史、黄色が日本古典、緑が日本現代文学、白が法律政治だ。そして赤は海外文学である。「岩波文庫の赤を端から読破していく」なんていう荒技を昔の人はよくやっていたらしい。今よりも本は安かっただろうし。

 岩波の赤本の総数は1000冊以上と言われており、読書マラソンを完走するのはかなりのハイスピードで進まなくてはならない。読み切る前に死ぬ。そもそも刊行数の四分の三がすでに絶版となっているようで、すべてを集めることも難しい。

 なにから読めば良いかわからない!という人は、読む本の色を決めてしまってそれを集めるのもいいかもね。岩波文庫に限らず。そうやって同系色で揃えた本たちを本棚に入れると、とてもきれいだ。美しい。

 ネタがなさすぎるのでランボオさんの文面を引用しよう。

 俺は母音の色を発明した。——Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。——俺は子音それぞれの形態と運動を整調した。しかも、本然の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。

「何言ってるんだこいつ」と思う人もいるかもしれないが、僕は「ああ、なるほどね」と共感した。高校のときによく詩を書いていた時期があって(黒歴史)、当時は風景や運動や思考が全て文字に変換されるような頭の動きをしていた。「ああ、ここはざらめだな」とか「ここのつなぎはまさかりだな」とか。なるべくはカタカナを使いたくなかったのを覚えている。カタカナは宇宙の言葉で、意味を持たないのだ。だから、書き手はそれ自体に秘密めいた装いを楽々と行えてしまう。

 とにもかくにも、音が色や運動に変換されたり、またはその逆の化学変化も、当時のしこうろぐにはよくあてはまる出来事だった。

 そう考えると、ランボオの鋭い文章は、ティーン特有のあれなのだなあとひざうちポンポンした。だいたい、詩人というのは普通を捨てた生き物だ。自分の文章を——それもかっこよさげな言い回しをつかったもの——大衆に公開する人は、かなりの勇気の持ち主か、恥じらいの回路が焼き切れているか、ふたつにひとつだ。強大なエネルギーを片手にごりごり進むことができる人間ではなくは、そんなことはできない。

 詩は読むものでも聞くものでもない。触れるものだ。むこうは伝える意志なんて、これっぽっちも持っていない。それならば読者であるぼくらも、学び取ろうとする決意を一旦捨て去る必要がある。やな宿題は全部ゴミ箱にすてて、それからページをめくりまくろう。ぶぁぁぁーーー!っとやってポン!と指をさしたところが、あなたの一ページ。歴史の一ページを刻む。

地獄の季節 (岩波文庫)

地獄の季節 (岩波文庫)