マトリョーシカ的日常

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【書評】存在とイデアと秩序とわたし。/「プラトン」【感想】

存在するとかしないとか

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 存在するとかしないとか、さいきんはそのような話ばかりだ。残念ながら今日も昨日の続きだ。普段はできないマット運動を、雨の日にこそはりきって行いたいものである。プラトンはソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師である。今日の哲学を形づくった偉大なるお人だ。わお。

 古本屋で買った岩波新書の『プラトン』は、死と恋愛と政治とイデアという四つの項目に分けて、彼の思想を説明している。著者の文章は分かりにくくないのだが、プラトンがあまりにもややこしく書いているせいで、文字が右目から入って左目から出て行く。脳で処理せずに、脊髄のみに蓄えられた僕の記憶をどうぞよろしく。

 プラトンと言えばイデア。イデアといえばプラトンだ。しかし、僕はイデアのことをよく知らない。本文を読んでいくと、イデアとは永久不滅のものらしい。日本では無常とか盛者必衰とかいう言葉が広まっているが、ギリシャの時代にはそんな思想はあったのだろうか。永久不滅と書くと、どこかのカードの永久不滅ポイントを思い出す。あれもイデアの一部なのだろう。

 後に、ニーチェはプラトンのイデア論を通常の世界と超越した世界の二元論でとらえて、「プラトニズム」とゆゆしたらしい。だがしかし、著者はプラトンのイデアは単なる二元論で把握できる代物ではないと言葉を荒げる。テンション上がってきた。

 イデアは秩序であり、ものに秩序が臨在したり関与することによって、ものは善となる。また、存在すること自体で、そいつは善なのだ。

あえて言えば、ものが存在するとは、ものが固有の秩序に従って活動すること、言い換えれば、特有の性能、特有の善を発揮することではないだろうか。あるいは存在するものとは善きものであり、存在とは善であると、主張しても差し支えはないのではあるまいか。

 イデアと秩序、そして存在と善は、みんなひとつのことなんだよ! 

 なるほど。

プラトンと洞窟

 著者はプラトンの「洞窟の比喩」を持ち出して、イデア論の二元的世界の連続性を説く。ここからは洞窟の比喩をについて書く。

 暗い洞窟の中で人々は壁にしばりつけられている。目の前の壁には、たいまつで照らされた自分たちやその他のなにやらうごめく影が見えるばかりである。たいまつは彼らの後ろに存在し、彼らは見ることが出来ない。しかし、ある一人の人間の拘束が解かれると、その人はあたりを見回してたいまつや影の正体を突き止める。そして洞窟の外へ出てまぶしすぎる太陽に出会うのだ。

 しばりつけられている人とは、私たちのことだ。そして影はいま見えている物体や現象。そしてたいまつと影の正体は一つ一つの真実を意味している。最後にまぶしすぎる太陽は全てにおいての統一的なイデア、つまるところの統一的な真である。太陽は洞窟の外はもちろん、内部の現象も支配している。なんとも難しい比喩だ。

 先日書いた、マックスウェーバーの「職業としての学問」にも、同じような洞窟の話が出てくる。もしかしたらウェーバーさんもプラトンの比喩を拝借したのかもしれない。

連続した世界

 以上から分かるように、洞窟の中と外は連続している。イデアと現実的な存在は断裂しているのではなく、どこかでつながっているのだ。この連続性からプラトンの言いたいことが分かる。

 プラトンにとっては秩序とは、人間が日常的には気がつかない、やはり背後から支配するものであったが、それはイデア的秩序、イデア的連関であって、人間が理性的に納得できる法であり、その秩序を知れば知るほど、人間の側の秩序も確立されて行くのである。

「イデアがわかれば、今の生活もイキイキしてくるよ!やったね!」

 そんなことをプラトンは言いたかったのかもしれない。

プラトン (岩波新書)

プラトン (岩波新書)

がんばりました。

むつかしい本を読んで、無理やりにでも書評を書く。その効能が書かれているエントリ。
2000字書くといいらしい。
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