タイトルはあまり意味がない。
『宇宙はなにでできているのか』を再読した。宇宙を構成しているものが何なのかを分かりやすく説明している。著者が言うには、宇宙は原子の固まりではないらしい。虚無が充満しているのだ。どんなに目を凝らしてもよく分からないが、虚無がなんらかの力を持っていることは分かった。名前がないと不便なので、ダークマター、ダークエネルギーと名付けた。
前半はなるほどなるほどと読めたが、ファインマンダイアグラムが出てきた辺りで本を投げ飛ばした。これが理解できるようになるのはいつのことだろう。とてつもなく小さい粒子をとてつもない速度でぶつけあって、大変不可思議な粒子をつくりだそうとしているのは分かる。本の挿絵にあったCERNの加速器はインパクトがあった。あそこで42型ブラウン管が生まれたのかなあ、と思ったりもした。
極小の世界は極大の世界に繋がっている。逆もまた然り。ウロボロスの蛇という生物を聞いたことがあるだろうか。自分のしっぽをくわえこんでいる蛇だ。また、ずいぶん昔にアボリジニの時間の考え方を習った。彼らにとって時間は過ぎ去っていくような直線的なものではなく、環のようになんべんも周回を行うらしい。蛇はアボリジニを産んだのかもしれないし、アボリジニが蛇をつくったのかもしれない。どうでもいいことだ。
極小は素粒子、極大は宇宙だ。双方はゼロが両手両足では足りないほどの倍率であるが、もともとは同じ現象なのではと科学者は推測する。加速度的に膨張する宇宙は、元は小さい星屑のかけらだったらしい。
僕らが見ている風景はわずかに過去の風景だ。光の速さで動く船に載せられている以上、どうしても遅れてしまうのだ。例えばあの月は1.2分前の月、あの太陽は約八分前の太陽なのだ。不思議。「結局過去しか見ることはできないのか」と悲観しないでほしい。それを利用すればずっとずっと過去を見る事が可能だからだ。地球から遠くと遠く離れた、見える限界ぎりぎりまで焦点を絞ると130億年前の景色にふっとばされる。とてつもない時間のスケールにおもわずくしゃみをする。
そうやって、宇宙の始まりをみる。しかし、それにも限界がある。
その方法で見ることができるのは宇宙誕生後38万年あたりまでです。なぜなら、それより昔の宇宙はあまりにも熱いため、原子が原子の状態を保てず、原子核と電子にバラバラになってしまうからです。
宇宙のはるかかなた、もしくは次元がいくつも離れているこのごくごく近傍で、誰かが僕らを観測しているかもしれない。それには壁はあるのか、ないのか。どっちなんだい。
過去を見ることができる、なんておかしな話だ。見ることができるのならそれはきっと過去じゃなくて今なのだ。時計の針だけを頼りに生きてはいけない。あやふやな時間軸のなかであらゆるものを共有したい。
さいきんは文章がまとまらなくてどうもいけない。
- 作者: 村山斉
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