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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

残された有限な心拍数と超無限のパラドックス/不完全性定理

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https://unsplash.com/?photo=RmZIUIF2S2Q

 抗うとか、耐え忍ぶとか、仕事をそういう風にしか表現できないことが悲しい。数年前の私は仕事をどういう風に捉えていたのだろう。機械と戯れる楽しい時間としか考えていなかったのだろうか。たぶん当時は、それほど人と関わり合って仕事をすることがなかったのだろう。今は何をするにも人が関わってきて、自分の考えを伝達してから作業をしなければならない。それが少ししんどいのか。そうか、しんどいのか。

 ゲーテルの時代から時計の針を大きく戻して話を再開しよう。彼が論文の冒頭で述べていた「数学の厳密化」は19世紀初頭では算術化と呼ばれていたらしい。算術化とは数学的知識を代数計算化する、すなわち機械化である。このような動きはコーシーの解析学によってはじまった。当時の解析学は物理学、天文学などの幅広い分野で用いられていたが、それが「実際にやってみたら論理とあってた」という経験的事実によって支えられていた。コーシーは極限について厳密に扱った。ワイエルシェトラスはコーシーの考えた概念を定式化した。このようにして数学は明確になっていった。

 そのあと、カントールという人が出てきて無限の集合について考えた。これは要素が無限個の集合である。集合は集まりであって、個数を数えるのがめんどくさいときに使うとべんりだと思う。彼は集合同士の個数を比べた。数えるのは難しかったので、一対一対応というものを行った。ある集合の要素ひとつがもうひとつの集合の要素一つと線で結ばれていくようなイメージである。「どっちが多いかな」と比べた。カントールはその作業にはまってしまった。超無限とかを考えた。クロネカーに叱られた。かわいそう。

 いつだかの記事で書いたかもしれないが、あらゆる事象は仮説でしかない。それが本当に確かなことかどうかは結局のところわからない。突き詰めていくと、自明とか当たり前とかアプリオリとかそのような感じになる。そういったわけで、数学の世界においても無限という概念ははじめは受け入れられなかった。しかし、人間は都合のいい生き物である。我々は「なんだか便利だな」「話を片付けやすいな」という概念やテーマを採用したがる。無限もそうなった。扱いやすかったのである。

巨大すぎる有限は、ある種の「性質の良い無限」よりも取り扱いにくいのである。
「不完全性定理」p106

 カントールの超無限アイデアは皆の間に広まり、無限はどんどん無限になった。しかし限りない膨張などといったものは存在しない。パラドックスが起こった。大きい集合を考えよう。AよりもBのほうが、BよりもCのほうが大きい……としていくと、集合はいくらでも大きくできる。無限だ。では、「すべての集合の集合」はどうか。うーん、困った。カントールのパラドックスはわかりにくかった。けれでもそのあとにラッセルさんのパラドックスが生まれてしまった。わかりやすかった。困った。

ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)

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