マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

業務時間はおのれの開示態を存在する/「存在と時間」

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人間は内に「照明」を含んでいるというのも、おのずからに世界=内=存在として明けられている——すなわち、なにかの存在者によってではなく、みずからその明るみ(Lichtung)を存在するというありさまで——ということなのである。
ちくま学芸文庫「存在と時間(上)」p289

 存在と時間は五章で内=存在の話をしはじめるが、今の私にはそんなことどうだっていい。現存在がおのずから発光しようが発熱しようが発電しようが、それによって何億人ものひとびとが息を吹き返したとしても、わたしの中の一段の靄が飲み込んでしまうよ。

 どうやら私は仕事が好きではないらしい。ひとに指摘されて初めて気がついた。あぁ、そうか、と。「あなたの業務に対する日常的な態度からはやる気が見られない。だから『好きじゃないのかな』と思ってしまう」ごもっともな意見だ。「本当にこの仕事が好きなのか」と聞かれ、答えに詰まってしまった。好きだとは返したが、自分の中ではそのようにはならないなと考えていた。皆は仕事が好きなのだろうか。「苦痛ではないけれどのめりこむほど好きではない」という類の仕事はあってはならないのだろうか。うまく言葉にできなかった。しなくてよかった。

 求められているのは結果であり、態度ではない。だからこんな面倒なことは考えずに淡々と結果を出せば良いのだ。それが出ていないからこうして指摘されるのだし、自分も負い目を感じてしまう。ストレスは体によくない。幸いもう少しで今の仕事は終わりが見えそうだ。あとひとつの問題を解決してしまえばなんとかなる。

 続きを書くかもしれないし、書かないかもしれない。

「現存在はおのれの開示態を存在する」つまりはひけらかしがあるということだ。とにかくある。五章はこのひけらかしの解明を行うようだ。それは二部に分かれ、ひとつはその構成を話す。もうひとつは頽落という難しい漢字が出てきたので放っておく。まったくやれやれ。二部を本文から書き出すと、「A 現の実存論的構成」と「B 現の日常的存在と現存在の頽落」である。

 A

 現は心境と了解からなる。この記事は心境の行方を描いて終わりにしたい。現、(または現存在)は「あるんだよ!」という投げやりな性格を所有していて、わりと適当である。ハイデッガーは被投性(Geworfenheit)とかっこよく言っているが適当である。心境の性質のひとつとして、現存在の「あるんだよ!」を明らかにすることが挙げられる、らしい。開示する。そうやって配られたカードを全て表にしてしまうそれは、いつしか世界=内=存在も共同なんたらも表にしてしまう。いや、してしまうのではなく、表になっているのをあらわにするという言い方のほうが正しいのか。オールオープンが心境の性質のふたつめであった。そういう次第だ。

 自分が仕事をそれほど好きではないと理解し、すこし肩の荷がおりた。技術に対する向上心がないのも、ハングリー精神がなにのも簡単に理由をつけることができるようになった。「好きではないから」である。私は誰よりも早く家に帰ることを願うし、帰宅後に仕事のことを考えたくない。だから業務時間中にやれることを全てやりきりたい。自分だけではなく、他人に仕事を振り、さっさと楽になりたい。こういう態度で良い気がしてきた。