マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

共同存在とコーヒー豆増量セール/存在と時間

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Photo by Thomas Griesbeck | Unsplash


 新聞を日経から地方紙に切り替えた。本来の目的は固定支出を削減することであったが、どうやら地方紙の方がチラシがたくさん入るらしい。近くのスーパーの特売情報がわかるようになった。妻も少し嬉しそうだ。新聞屋も地方紙に切り替えてくれることを好意的に受け取っているらしく、今月と来月の料金は無料となった。よかった。次は余分に入っている保険を解約しようと思う。

 大量に挟まったチラシのひとつに近くのコーヒー屋のものがあった。どうやらコーヒー豆50%増量キャンペーンを行うようだ。行くしかなかった。会社の帰り道、いつもの道のひとつ向こうへ自転車を走らせた。辺りはすでに暗く、いくぶん寒かった。店に着いて適当なブレンドを買った。その場で豆を挽いてもらった。良い匂いがした。そうか、これが足りなかったのか。休日の朝、久しぶりにコーヒーをドリップすると、ある程度の心地よい感覚を覚えた。ひとつの所作に集中することによって生み出される余白が私をつくった。インスタントにはないものがあった。よかったですね。

 「存在と時間」の四章をやっと読み終えた。世界性の文脈をすくうことで、たしかに世界となることがわかった。わかったとは目分量の了解である。存在はあったのだ。しかし存在しているのは誰なのか。私だ。いいや違う、皆だ。そのような内容であった。この章では共同存在と共同現存在というワードが登場した。なにかが共同しているらしい。読み進めるうちに、これはわりと普通の意味合いでの共同だということがわかった。

 世間はいたるところに来合せていて、しかも現存在が決断を迫られるときには、いちはやく姿をくらましている。けれども、世間はあらゆる判断と決断をすでに与えていると称するので、世間は各自の現存在から責任をとりさる。

ちくま学芸文庫「存在と時間(上)」p278

 このあたりの文章に感銘をうけた。存在をうたうとき、私は私になりたがるがそれは事実とは異なるようだった。私個人が独立してあるのではなく、あたりいったいの総合がかたまりとなって漂うのだ。うようよだなと思った。ハイデッガーは「だれでもが他人であり、だれひとりとして自己自身ではない」と言っている。なんだか肩の荷が下りた。私が社会に対して預かっている(と思い込んでいる)いくばくかの責任はそれほど重要ではないぞ、と教えてくれているのだ。そうやって都合の良い解釈をして生きる。

 しかしながら、私が私であるという揺るぎない要素は確かに存在していて、それは隣にいる妻であったり、枕に足を伸ばして寝ている息子だったりする。共同存在の用語は、さしあたりの存在の位置を決めたに過ぎず、本当の本当の存在がなんであるかは未だにわからずじまいなのだ。それが五章以降に書いているらしい。

 へー。

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)