今回のようにタイトルを先に思いついて書き出すのは非常にまれである。ジェリアとは何者なのか、ということを高校時代——もう十年も前である……!——に考えていた。考えていたというよりもノートの隅にメモをしていた程度だ。それをさきほど思い出した。全ては存在と時間のせいだ。
序論の第2章はほとんど意味のない話だった。最後の総括で筆者ががんばろうとしていた目次(仮)があるので、それに目を通せばよかった。他は現象についてこれでもかというほど語っていて私には入り込むスペースがなかった。そうそう、彼は存在を考えるうえで二重の課題があるよ、と言っていた。ひとつはスーパー分析で、もうひとつはスーパー歴史性だ。スーパーは余計だった。問いも答えもあやふやな存在に対しその構成要素を洗い出してみようと頑張り、そして存在の歴史を紐解いてそのあとでやっぱり紐縛りしてやろうという雰囲気だった。前回の記事にも書いたが、歴史のうんぬんの項は書かれていない。犠牲になったのだ。
2章では現象学について説明していた。現象は現れるとか現れてくるとかそんな意味で、学は関係という意味らしい。私にとってその言葉の意味はどうでもよかった。著者は現象学を「存在の意味の問い」に近づくためのツールでしかないと言っているからだ。スパナやレンチの語源を調べるのが無為なのと同様である。2章は終わった。
現存在の「本質」はそれの実存にある。したがって、この存在者について取り出すことのできる所性格は、しかじかの「形相」をおびて客体的に存在するものの客体的「属性」というようなものではなくて、そのつど現存在に可能な存在の仕方であり、かつそれのみである。
存在と時間(上) ちくま学術文庫 p109
やっと第一編に移る。ここでは現存在のいろいろを説明している。しかし、私は現存在がどのようなものか理解していない。きっと、スーパーサイヤ人のようにしゅわんしゅわんしている存在なのだろう。特別なのだ。
著者は現存在には実存性と各自性というのが備わっていると述べている。実存とは「あるんだよ!」ということだ。有無を言わさず「あるんだよ!」と叫んでいる。各自性はオンリーワンのことだ。現存在は客体的にそれと表現はできないし、そんな答えも持ち合わせていない。けれどもまぁハイデッガーさんは現存在が「そのつどなんらかの可能性を存在し、かつおのれの存在においてこの可能性をなんらかの仕方で了解している」と言っている。なんだか量子力学チックになってきた。「あるんだよ!」はあたりを漂うもやのようだ。このもやもやを彼は現存在の平均性と表している。なるほどわからん。
第一編の一章はそのあともえっちらおっちらしていたが、「わからん!」「むずかしいよ!」と書いているにすぎなかった。存在の問題はあたりまえすぎて、昔の人たちも存在の了解をりょーかい!して話をすすめていたようだ。わお。さいごに現存在をいいかんじにしてくれる世界観をさがしてみたいなぁ、と書かれていた。つぎの章から頑張るよ、と。
ジェリアは何者でもない。そもそもナイジェリアとアルジェリアは語源が違う。前者はニジェール川から国名をとり、後者は島々を表すジャザーイルから来ている。しかし、ジェリアはたしかにあるのだ。あったりなかったりしてもジェリアはあるのだ。存在はこわい。
ナイメニアはあるのだろうか。
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,細谷貞雄
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