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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

何かにつけ仮説

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Sweden (by Anders Jildén) 

 自分が自分であることに飽きてきた。他の人はそんなことないのだろうか。生活の中でいろんな人と出会ったり別れたりするが、自分だけはどうあがいても振り切ることができない。それだからときどき、洗面台で顔をあらってふと鏡に目をやるとやっぱり自分がいて、「ああもう」ということがある。いや、ない。いまのは作り話。 




 近頃はあまりブログを書かなくなった。こどもが生まれたのもあるかもしれないが、ものを書く時間はある。しかしその時間をきっと別のことに使っているのだろう。自覚はない。いつのまにか日々が過ぎていく。ちょっとした焦りを覚えて、先月は電子書籍を出してみた。それもそれまでのことだった。なにも進展はしない。もう少しダイナミックな成長を実感したい。息子のCCO(仮名)はつかまり立ちが安定してきて、家中のとびらを開けまくる。決して閉じない。また、柱を利用した「いないいないばあ」を覚えたようだ。すげえなあ。一年ちょっと前はこの世にいなかったのに。彼の成長スピードを見習いたいものだ。 

私には次のようにいう人があるだろうということがよくわかる。「我々は無知である。しかしながら我々は行動しなくてはならぬ。行動するには、我々の無知を取り除くに十分なだけの詮索をほしいままにするだけの時間を持たない。(中略)」と。そうだとすると確率論は、従って科学は、実践上の価値しか有しないことになる。 
「科学と仮説」 p218 

 すべてのことを知ろうとしていた時期があった。ほんとうにごくわずかな期間ではあったが。「あらゆる情報は小さな粒子たちの移動に置き換えることができ、それだからその情報を網羅することができるなら私はすべてを理解出来る」と。そんなことはなかった。私はメタ的なことがらを頭にいれていなかった。それらの移動によって「〜という情報がある」という二次情報が出来上がってしまう。それを手にいれることは無理だ。そういう理屈でやはり確率は必要だ。確からしさ、便利さ、コンビニを採点するときはそいつは役に立つ。 

 もう科学と仮説をとりあげるのは終わりにしよう。いろいろ書いたが、「事象の説明に便利な説が仮説になるよ」ということだ。その便利さとは我々がいだく世界観にマッチしているあれらしい。そうかい。 

 次はつくってわくわく!をしてから「存在と時間」を読んでみよう。 

科学と仮説 (岩波文庫)

科学と仮説 (岩波文庫)