マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

カフカ「審判」にみられる日常の無慈悲なかんじ

 十一月の隙間を埋めるようにカフカの「審判」を読んだ。一人の男がある日突然逮捕され、罪の内容がわらからないまま一年後に処刑される。それだけの内容だった。私はきっとこの小説になにも求めてはいけないので、あまり詮索するのはやめようと思う。というより、本当に少しずつ少しずつ読んでいたので彼らの名前やら相関を忘れてしまった。申し訳ない。それでもひとつの文章としてここに残すのだから、何かしらのサムシングを書き留めた方がいいだろう。

 主人公のヨーゼフ・Kは大きな銀行の業務主任である。彼はなんたらバッハさんが管理する下宿に住んでいて、そこの住人とも少しはやりとりがある。風貌に対してはあまり書かれていないので覚えていないが、醜くはないだろう。Kの周囲には女性がいて、彼女らはKのことを悪くは思っていないからだ。エルザには週一のペースで会う関係だし、タイピストのビュルストナー嬢とも逮捕の事件を通して関わるようになった。もう一人人妻が出てくるが、名前は覚えていない。記されていないのかもしれない。

 自分の記憶力の低下に不安を抱くが、もしかしたらそれはこの小説がもつ特徴のひとつかもしれない。なんというか、起伏がないのだ。重要なこともそうでないことも均質に描かれており、注意をそらすとだいじな箇所を見過ごしそうになる。とくにどこかの事務所に連れて行かれるところは、夢の中のようにシームレスに場面が切り替わる。密室のあのこもった空気感がよく表現されている。気分がわるくなる。Kも次第に意識の焦点が変わって来ていて、どことなく恐怖を感じる。

 その小説は会社の昼休みに読まれた。私が過ごす部屋は昼休みには消灯される。あるのは機械のうなり声のみである。温度は適切だった。私は窓際に移動し、外から漏れ出てくる明かりを求める。作業服はいくつものポケットがついており、一番大きい胸ポケットには文庫本がちょうど入る。私は本をざざざと取り出し、少しの間読み進める。

 「でも私には罪はないのです」と、Kは言った。「それは間違いです。いったいどうして、およそ一人の人間が有罪だなんてことがありえましょうか? ここにいる私たちは、あなただって私だって、みんな人間です」

 罪と言うのがどういうものかわからない。それはKも私も同じである。きっと誰かしらいけないことをしている。行動の善し悪しというのは立場によって変わるものであって、全てのものにとって良い行いというのは存在しない。もしかしたら、明日逮捕されるかもしれない。結局、Kは自分の罪が何なのか分からず、陰謀を企てる根源に行き着くこともなく処刑される。ネタバレをしてしまった。うっかりしてしまった。しかし、「審判」は話の結果よりそれにいきつく過程を追うほうに面白みがある。Kが悩む最中も世間は相変わらず進行しており、歩みをとめようとはしない。日常の無慈悲なかんじがいいなと思った。

審判 (新潮文庫)

審判 (新潮文庫)