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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

自己を認識しはじめる息子と神さま

読書 純粋理性批判

 最近、息子が自分の手をじっと見つめるようになった。それは決まって左手で行われるので、私は彼は左利きなのではないかと思った。生まれてから大きくなったとはいえ、彼が握るこぶしはまだ小さい。ぐっと握ったまま、それを自分の目の前に持ってきてしばらく停止する。自己とは何かを考えているのだろうか。そんな思考は不毛だから、もっと実用的なことを考えてほしい。

 さて、神の話である。プラトンが提唱するイデア論は、ちょうてっぺんに存在する絶対的なそいつのことである。イデアは全てを司るものであり、何でも知ってるおじいさんだ。そこまで高みにいかなくてもイデアっぽいじいさんはいるよ、とカント。それは我々の心の中にね、なんてカッコいいことを言っている。そうはいっても神は神である。やっぱり神らしく規定してやらないと決まりがわるい。ドレスコードの問題だ。しかしこれも難しい。

 「神はいわば独裁スイッチを持っている存在であり、有形無形すべてのもののON/OFFを司る」こんな風に規定する。しかしこのように「持っている」と表現すると、それはひとつの実在性を生む。なんだか俗っぽくなる。画像や動画としてイメージできてしまうものは完全な上位ではない。なぜなら、それらのpixvやyoutubeといったサービスには投稿者の存在を規定することが不可避であって、神を描いたものがいることになるからだ。イメージしてはいけない。そういうわけで実在を考えてはいけない。

 神とは単なる目標である。「理性によって全てのものを導出しよう」という名目のスローガンだ。「お客様第一主義」「全社員が経営者」「信頼と安全」などと同様に概念の一種である。神とは他の全てをヒモづけるための起点というよりは、むしろあらかじめ全てを含んでいなければならない。ちょうど量子論に登場した場の概念と同じである。粒子や波が状態を定めているのではなく、むしろその座標ひとつひとつにON/OFFスイッチが入っており、カチカチカチと軽快に切り替わっているような。

一切の物の完全な規定を含む大前提は、実在する一切のものの総括の表象に他ならない、つまりこの大前提は、一切の術語をその先験的内容に従って自分のもとに包括する概念ではなくて、これを自分のうちに包括する概念なのである。

 いわずもがな、完全な規定はつまり神のことである。

 さて、ここからカントは中巻の(というか第二部の)まとめにうつる。この巻で紹介した「先験的弁証論」というのはいまひとつ分からなかったが、「当たり前をどうやって見積もるか」を語っていたのは覚えている。彼は三つのアプローチを用いた。ひとつは私を主体に置く心理学、もうひとつは因果性から全てを探求する宇宙学、さいごは神を検討する神学である。心理学を用いると、考える私という事象がすでに経験を含んでいるのでだめ。当たり前に適さない。宇宙学ではなぜなぜを繰り返すとついにはひどい自己矛盾(アンチノミー)に陥るからだめ。残ったのは神だけである。

 最後まで読むのがしんどくなったので、後ろの方からパラパラと読むことにした。すると、「神によっても無理だったよ。思弁的使用を経験の外で行うのはできない」と書いてあった。なんだ、神もだめだったのか。ちょーうける。するとこの本には一体何が書いてあったのか。私がこの本を読むのに費やした時間は何だったのか。何にもなるまい。しかし哲学とはこんなものなのかもしれない。当たり前のことを議論し、当たり前の答えを出す。途中の言葉が難しいだけ。

 あともう一回記事を書いてカントはしばらくお休みしよう。今度はカフカを読む。

El Shaddai ASCENSION OF THE METATRON

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