マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

缶コーヒーの命題/純粋理性批判(中)解説 4

 缶コーヒーを飲むようになった。おそらく会社の上司と一緒にコンビニに行ったことが原因である。原因であると書くと実験レポートの考察のような文体になる。私は実験は好きでも嫌いでもないし、レポートも好きでも嫌いでもない。事実を事実と述べるだけで何の意味もない。しかし私は忘れる生き物であり、あるひな形にそってその場の発見を書き留めないとそれらの事実は断ち消える。上司はことあるごとにおごってくれる。何か食うかと聞かれたが社用車を汚したくないと思い、いえ別にいいです。と答えた。そして缶コーヒーを買った。砂糖とミルクの入っていないものを飲むと、カフェインだけが体内に侵入するのを感じる。数週間ほど前の話だ。

 アンチノミーとは自己矛盾のことで、カントは四つの自己矛盾を挙げている。全て書くと長たらしくなるが仕方がない。1:この世は時間と空間に制限がある/ない。2:世界は単純なものの総体で構成されている/いない。3:物事には自然法則(原因)より上位の原因がある/ない。4:神は存在する/しない。ひとつずつ説明する。

 1の矛盾は正命題と反対命題の視点が異なることによって生まれた。前者は無限について、後者は虚無について語る。「世界が無限だとしたら私たちはその中から何かを切り取って説明することはできない」「無限ではなかったらそれらの狭間に虚無が生まれる。虚無を規定しなければいけない」

 2も似たような原因である。正命題は単純でないと構成という概念そのものが崩れると叫び、反対命題は単純なものは知覚できない(わからない)と言う。私はこれは前者に分がある気がする。知覚できないのはしかたがない。概念を想像すればいいだけの話だ。でも面白いのが2が光の粒子性についての意見の構造に似ているところだ。正命題は粒子性を肯定する。反対命題は「空間は単純なものではない」と言うのでなんだか場の理論を思い浮かべる。

 3は量子論と相対性理論の対立である。ニールスボーア対アインシュタイン。原因以上の原因として、いまは確率的解釈がとり上げられている。「神はサイコロを振らない」が反対命題の主張だが、ボーアさんたちは「チンチロくらいはやっているんじゃないか」と説明している。これは現在のところボーアが優勢である。物理学に完全な勝利は存在しない。本当の真実なんて観測しようがないからだ。我々は限りなく真実に近い仮説を探求するしかない。

 4は次に繋がるはなしだ。神は存在するかしないか。この対立する命題だが、面白いことに共通の根源によって持論を展開する。「過ぎ去った時間は全ての条件を包括する」。正命題はこの条件に無条件なもの(神)を含み、反対命題は条件付きなものを放り込む。

 段落が多くなってしまった。私は段落が多い文章はあまり書きたくない。空間を持たせることでしか文章の区切りを感じさせることができませんよ、と宣言しているような気がするから。しかし実際そうなのだから仕方がない。いくら文章を書いてもうまくならない。いくら本を読んでも本が読めない。これは単なる消費活動だと割り切るほうがよいのかもしれない。

 夜が明けて来た。そろそろ新聞でも読もう。

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