マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

語り得ぬ平日については、沈黙せねばならない。/論理哲学論考 解説(終)

 また一週間が始まる。苦痛ではない。むしろワクワクする。今の仕事は天職ではないかと思う。人と話をすることはあまりなく、ただ機械と戯れる。彼らは嘘をつかないし、私もできるだけ正直であろうと願う。かっこいいことを言ったつもりだが、人と関わらなくていいのが楽なだけだ。しかしモノをつくるのは楽しい。そう、楽しい。結局はつくったやつが強いのだ。どれだけ理屈をこねくり回そうと、事態から事実へと展開しなければなんとも世界はそのままである。コペルニクス的展開は頭の中の出来事だ。まだ作られていないものの保証方法を考えるなんてナンセンスである。現実は変わる。


 先日の「書きたいこと」がなんだったのか、思い出せない。そのときの私と今の私の想いが一緒なら、おそらく論理学と量子力学の兼ね合いについてであろう。ウィトゲンシュタインが述べる科学はニュートン力学である。その物体は粒子として挙動し、なんらかの因果があり状態を変化させる。因果関係は絶対の法則であろうか、否。量子力学の世界では因果律が成り立たない。見ることにより対象の状態は変化し、そのものの真を見きわめることはできない。彼らは確率的に存在と非在を同時に併せ持つ。それだから、ウィトゲンシュタインの科学によって全ての状態を描写することができる、という夢は砕け散ることになる。あれは犠牲になったのだ。どうだろう。彼はそんな夢を持ちあわせていなかったかもしれない。彼は思考の枠を引きたかっただけだ。ニュートン力学はその例えでしかなく、この本によって彼のやりたかったことはおおむね完成された。

 価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。

 本の最後は語り得ないものに関する言及である。語り得ないものなのだからそっとしておけばいいのだが、彼はぬり絵のふちをぎりぎりまで塗るタイプらしい。さて、論理学においては自己言及はできない。自らを描写するときはそれを俯瞰する視点が必要であり、その視点は自己に含まれる。つまりは延々とつづく鉤カッコを相手にせねばならない。無理な話だ。価値を決めるのは語られたものではない。それは有理数には存在せず、無理数の界隈でなりをひそめている。そういう理由で、行為に価値をもとめる倫理学は語り得ない。そして、神も語り得ない。

 それほど難しいことが書いてある本ではなかった。もっと詳しく掘り下げれば難解な点もみつかるかもしれない。しかし、私としては大筋だけ抑えておけば問題ないのでこれで十分だ。

 ウィトゲンシュタインはこれで哲学は全て解決したとペンを置いた。しかし、約十年後「やっぱり間違いだったんじゃねぇの」と哲学を再開した。wikipediaを調べたら詳しい人がいろいろ書いてくれてて面白かった。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia

 量子力学といい、論理学といい二十世紀初頭は楽しげなことが多い。もちろん戦争もあったが、学者たちはそれに負けずに勉学に励んでいた。次に学ぶとすればチューリングかノイマンか。論理学からコンピュータの発明を追いたい。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)