マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

物理の歴史はでっちあげの歴史

 書くことは区切ることだ。思考を明らかにすることでは決してない。我々の内部にあるシステムを思考と一口に表現することは、おこがましいというか、恐れ多いというか、自分でも使ったことのない語彙を用いたくなるほど体が震える。きっとこれは誰にも伝わらない文章であるので、もっと好きに書けばいい。

 「世界の構成物を細分化すると、それ以上分解できないものが出てくる。それが世界の最小単位、原子である」。このような原子論はずいぶん前から存在していて、紀元前四百年頃にギリシャの哲学者であるデモクリトスが唱えていた。しかし当時は考えることができても、技術がそのレベルまで達していなかった。それゆえ、抽象化の粋である哲学や数学は容易に発展したが、具体的に現象を観察する装置はまだ出来ず、物理学は発展しなかったのである。原子論はその後二千年ほど動きがなかった。

 十七世紀、ニュートンはプリズムを用いて光を分けた。虹が出来た。「光は単一のものではなく、異なる成分が組み合わさりできたもの」。彼はそう結論づけた。プリズムから発した七色の光を彼はスペクトルと名付けた。これは後に広い意味を持つようになる。「ある複雑な量を単純な成分に分け、ある特定の量の大小によって分布を示したもの(大辞林 第二版)」その百年後、ドルトンは元素同士の結合を観察し、その配分を調べた。するとそれらは倍数比例、定比例の法則があることを確認した。物体を構成している小粒子の存在が明らかになった。やっと原子は存在を認められたのである。よかったねー。

 原子が不可思議なスペクトルを発していることは、以前から知られていた。ニュートンが光を分けた時はずらあと連続して分布していたのに、原子のスペクトルは不連続だった。不思議だ。ゼーマンは原子から放出される電磁波のスペクトルが、磁場の有無によって変化することを発見した。磁場があると単一のスペクトル線が複数に分裂するのだ。これがゼーマン効果である。1896年のことだった。彼はローレンツ力でおなじみのローレンツとは同じ大学の同僚として深い親交があった。ローレンツが磁場と荷電粒子の相互作用を説いたように、ゼーマンはスペクトルはジバニャンにより何らかのアクションを起こしてしまうんだという推測を立てた。どうだろう。そうだろう。

 おかしい。何かがおかしい。原子はそれ以上分解できない最小単位であって、それの挙動がおかしくなるということはお腹の調子が悪いのではないか。朝からヨーグルトと牛乳を摂取し、「ああ、乳製品は夜に摂るものだよな」と後悔していたのではないか。かわいそうな原子。外力の影響を受けて原子の動きがかわるのは分かる。しかし、それが発するスペクトルが変わるというのは、原子の内部にさらに「何か」が存在することを意味している。

 1897年、J.J.トムソンは陰極線の実験から、原子よりも小さい「電子」を発見した。陰極線は真空管に流れる電気の線のことである。電流は程度の差こそあれ、どのような物体にも通ることが知られていた。それならば、全く物質の干渉が起きない真空上ではどのような挙動をするのか。ガラス細工師の協力を得て、彼らは実験を行っていた。そうして原子とは関係なさそうな電流の研究から、電子が発見されたのである。そのため名前も電の字がついている。

 ジバニャン問題は解決したかに見られた。しかし、まったくそんなことはなく、むしろその謎はさらに深まってしまった。原子の中には電子がある。それでは電子はどのように分布しているのか。原子の構造を探る旅が始まった。

 現代人は知っている。「原子は中央に原子核があり、電子がその周囲に飛び回っている」ということを。しかし、教科書は絶対ではない。それは現時点で採用されている仮説であり、完全無欠の真実などどこにもない。物理の歴史はでっちあげの歴史であり、仮説と検証のPDCAをぐるぐる回しているにすぎない。現代の教科書に至るまでの経緯を追うことは、未来を考えることにもつながるはずだ。

 量子力学までたどりつけなかった。つづく。

参考文献:

化学の歴史 (ちくま学芸文庫)

化学の歴史 (ちくま学芸文庫)