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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

日向電工の解釈とスーフィズム/「コーヒーが廻り世界史が廻る」

読書 コーヒーが廻り世界史が廻る

 「メルババ」はトルコ語の「こんにちは」にあたる言葉だが、それは「あなたの周りに広がりはあるか」という意味になる。砂漠の民は周囲が開けていた方が幸福を感じるらしい。私は砂漠の民なのだろうか。メルババが好きだ。広がりは物理的なそれではなく精神的、心理的な意味のそれではないか。可能性と置き換えよう。平日の湿った拘束感とは裏腹に、週末は可能性で溢れておりなんでもできそうな気がする。そうやって今朝も早く起きたが特になにもしていない。

 「コーヒーが廻り世界史が廻る」を読んだ。これも先月の誕生日にプレゼントで頂いたものだ。送り主のアサハラさんからはこれを含めて計三冊も本を頂いてしまい、本当にありがたい。内容としては、世界にコーヒーが誕生しそれが拡散される様を数百年の歴史を縦断しながら解説している本だ。著者の奥深い知識と軽快な語り口に引き込まれ、一気に読んでしまった。一つの記事で書ききるにはもったいないので、数回にわけて書いていく。

 コーヒーの誕生の起源は諸説あり、山羊飼いのカルディが発見したという話が有名だ。しかし、著者曰くコーヒーの起源伝説は全てイスラームのスーフィーに通じるという。スーフィーとはイスラーム世界においてあるスタイルをもつ団体の総称であり、イスラーム教の宗派というわけではない。彼らはテキストからその教えを汲み取るというよりは、ダンスや音楽を用いて神と自分の一体化をはかる。歌や踊りはイスラームの多数派が戒によって禁じており、スーフィーたちはいわば異端者として見られる。彼らがコーヒーに目を向けたのは、他の飲料にはないその異端具合にあった。

 だいたい、コーヒーというのは奇体な飲み物である。そもそも体に悪い。飲むと興奮する。眠れない。食欲がなくなる。痩せる。しかし、そのコーヒーのネガティブな特性を丸ごとポジティブに受け入れ、世界への伝播へ力を貸したのがスーフィーたちであった。彼らは体に悪いことなとなどものともせずコーヒーを飲み、興奮するためにコーヒーを飲み、眠らないためにコーヒーを飲み、食欲を断つためにコーヒーを飲んだのである。

 時は十二世紀。電灯のない時代に眠らずに起きる必要がどこにあるのか。本を読むと、イスラームにおいて夜を徹して祈るというのはもっとも善とされる行為らしい。「他の人が寝静まっている間も私はこれだけ頑張ってますよ」、と神にアピールするわけだ。眠らないというのは人間の生理活動に反することであり、健全なものではない。しかし、スーフィーたちはその健全さを軽々と放り、現世を否定する。純粋にカッコいいなと思った。

 話は変わるが、さいきん日向電工さんのVOCALOID曲を聴いている。「え、ボカロ?」と敬遠しないで欲しい。彼(?)の作品は脂ぎった属性は備えておらず、スタイリッシュでどこか排他的だ。独特のリズムと旋律がクセになるが、歌詞も面白い。リリース順に歌詞を読み解いていくと、ひとつのストーリーを紡いでいるのだ。

 作中に登場する地底人らは「アンダワ」、つまり地下深くに住んでいたが、その閉塞感に嫌気がさし地下から抜け出す。他の惑星を目指し「ワープアンドワープ」を繰り返しある場所へとたどりつく。しかし、そこで建築された「プラスチックケージ」は生命の躍動は感じられず、虚しさを覚える。そこにジベタ教教祖が出現し、彼らは「ジベタトラベル」、虚空へ引越をする。一時の安寧を覚えた移住者であったが、やがて回線レベルで革命を揶揄する「ルスバンドライブ」が鳴り響く。その声に共鳴した彼らは再び手を取り合うが、様々な教えにつられて手足を動かすばかり。そこに心はなく「ブリキノダンス」を踊るばかりだ。もうわけがわからなくなり、やけになった少女らは「スパークガールシンドローム」、破壊衝動を抑えきれず爆発する。

 意味が分からない箇所も多いが、定住地を持たず放浪する様はどこか砂漠の民を連想させる。地底人にとってのメルババが何に値するのかは定かではないが、彼らもコーヒーを好んで飲みそうだ。

 スーフィーによって広まったコーヒーは、その後イスラーム社会において弾圧される。しかしそれもすぐに解除され、やがてヨーロッパ、南米と世界へ拡散されていく。つづきはまた今度。

コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液 (中公新書)

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