マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

世界観をつくっては壊し六十秒が経つ/「カフェと日本人」

 今朝もコーヒーを入れた。最近は豆を均一に炒るコツが分かってきて、昨日焙煎した豆は先週のそれよりもおいしくなった気がした。しかし、喫茶店のマスターのようにうまくドリップできない。どうしても落とす湯量が一定にならず、お湯が先っぽでぶれる。練習が必要だ。

 週末は喫茶店へ行き、コーヒーの本を読んだ。けいろー (id:ornith) さんから誕生日プレゼントいただいた本だ。感謝。『カフェと日本人』は名古屋生まれのジャーナリストが、日本のコーヒー文化を取材・調査したものだ。コーヒーが日本にやってきた経緯から、大正・昭和時代の喫茶店の紹介、日本各地の喫茶店レビューなど内容は多岐にわたる。また、地元名古屋とコーヒーのつながりについても詳しく書かれている。最後は、現代の隠れたコーヒー市場である「うちカフェ」に焦点を置き、その規模や対応する企業の作戦について述べられている。

 昨今の日本のコーヒー事情について言えば、これ一冊読めば網羅できるレベルだろう。すごい密度。
 

 印象に残ったところを引用しよう。仙台にある「カフェバルミュゼット」を筆者が取材したときのことだ。3.11の後、被災者にコーヒーを振る舞った店員の川口さんは、自身のコーヒーに対する意識が変わったと言う。

「それまで『自分の中にあった味の価値観』を優先してきましたが、震災体験を経て『生活の中でのコーヒーの位置づけ』に変わりました。それは当店でしか飲めない味を綿密につくり出すよりも、それぞれのお客様に受け入れられる味をつくりだすことです」


 これはコーヒーに限らない話かもしれないが、嗜好が深みにハマっていくと自分の世界観をつくりたくなる。こうあるべきとか、してはならないとか。色は何色で質感はこうで、音はこんなかんじと勝手にレイヤーを重ねていく。そうして追求していくと世界はどんどん閉鎖的になり、限りなくコンパクトになる。しかし、密度は変わらないため、尋常ではない圧がかかる。もしかしたら、世界の外にいるひとたちは「あ、針でつついたら爆発しそうだな」と思っているかもしれない。

 いろんな経緯があるが、それはいづれ壊れる。後に待っているのはむなしさだったり、ひとりを感じるロンリネスだったり、はたまた空虚なサクセスだったりする。「わたしはなにをしていたんだ」と途方に暮れる。しかし、壊れてしまうと肩の荷が落ちてらくに動き回れる。圧倒的成長はないが、圧倒的無がある。無。その空間は決してゴールでないが、スタートでもない。人によっては次の世界を構築するまでのナギかもしれない。

 そうやって、殻をつくっては破ることを周期的に繰り返すことで、人間は死に近づく。まったく意味がない作業だ。あなたがこうして記事を読んでいる間にも、アフリカでは一分間に六十秒が経過している。私もコーヒーを入れている場合ではないのかもしれない。

 改めてけいろー (id:ornith) さん、プレゼントありがとうございます。

カフェと日本人 講談社現代新書

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