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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

矢印のないメモをとる

 矢印が好きではない。正確に言うと、矢印を用いて思考を整理することが好きではない。以前はメモ帳に「A→B」などと記入していたが、教授に怒られてやめた。ときどき思い出す。彼は私の矢印入りの研究ノートを見て、こう言った。「矢印は嫌いなんだよね。それが因果関係なのか、時系列による変化なのか、解説なのか、分からないから」確かにそうだ。

 それから、私は矢印をなるべく用いずに、言葉のみで思考を語ることにしている。風景の記憶や、モノの形も言葉で言い表すように努力している。お気に入りのメモ帳の最新刊は、全て数字とテキストで埋め尽くされている。そう、テキスト。

 テキストは驚くべき力と効率性をもっている。それは最も訴求力があり、最もアクセシブルなメディア形式だ。読み書きが出来れば、誰でも意味あることを表現できる。


EVAN WILLIAMS (WIRED.Vol14 p114)

 テキストは高い圧縮力と復元力を秘めている。たとえどんな汚い字であっても、正確に読み取ることができれば意味を損なうことはない。また、言葉の背後に隠された力強さは図形にはないものである。日本語の場合はそれが特につよく、たった漢字二文字でさまざなものを表すことができる。

 私はびっくりするほど花の名前を知らない。この間、躑躅(つつじ)というものを教えてもらった。それ以来、街中のつつじをみかけては心のなかで「つつじ、つつじ」と、確認している。こどもように。その名前を知ってから、彼らが街中のいたるところに生息していることに気づく。白や赤やピンクの花びらが、ぶあぶあと一面に咲き誇っている。つつじを覚えるより前は、朝顔の一種だと決めつけていた。まったく失礼な話だ。

 文章を書くためには名前を知らなくてはいけない。ガイドラインに沿って、長々と描写をすることはできるが、それよりもたったひとつの言葉が欲しい。全てのものに名前がつけられている理由は、テキストがもつ能力を最大限に生かすためである。そして、誰もが自分の名前を呼んでほしいからでもある。