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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

存在としてのピッコロ、それは「聖なる侵入」

 存在について書く、なんて大風呂敷を広げなきゃよかった。その問題は今までに数えきれない哲学者が言い切れない時間を使って考え抜いてきたからだ。彼らがバウムクーヘンの根っこを形づくり、年頃の若者たちが似たりよったりの理想を上書きする。死は生だとか、視界の外は無とか、そんな話だ。私が今から語るのはバウムクーヘンの皮の部分であり、宇宙のちり、墓石にたたずむコケでしかない。

 エマニュエルは言うなれば神様であり、みなの存在を保証するのがお仕事である。彼が考えれば在り、忘れれば消滅する。簡単なことだ。なかなか難しいことではないか、と思うだろうがみなも同じことをやっている。君のあたまの中で花粉を思えばスギ花粉は飛散し、忘れれば花粉は消え去る。鼻づまりの存在は気にかけることが多いが、鼻づまらずの存在はなかなかに非在である。存在の条件は知覚であり、非在の条件は忘却である。

在れよ、——そうして知れ、同時に非在の条件を。おまえの心の振動の限りない奥底を知れ、この一度きりの生に剰すなき振動を遂げるために
(オルフォイスに寄せるソネット   リルケ詩集 p170)

 オルフォイス(オルフェウス、オルペウス)は、ギリシア神話に出てくる吟遊詩人の神であり、八つ裂きにされちゃったらしい。かわいそう。リルケの「在れよ」というのが「頑張れよ」と励ましている感じになっている。死んだけどもう一回遊べるどん、頑張れよ、ジャーヨー。このリルケの詩を参考にすると、心の振動の奥深さ、つまりバウムクーヘンの根っこは「在れよ」の条件のようだ。だったら非在の条件はバウムクーヘンが「なしよ」ということか。あなたのバウムクーヘンはなにかな。

 人間は等しく債務者である。細々とした存在を担保に生を借りている。月々の保険料の代わりに記憶を記録に移し替え、どこかで自身の生の価値を見いだしている。存在イコール生ではないが、それに近しいものはある。人間は考えるあしである。あのあしはfootの足だと思い込んでいた時期があって、「俺たちは足で調査しなきゃいけないんだよ」とベテラン刑事がスマホに頼る新米に喝を入れている画をイメージしてたりした。あしが何なのかは結局分からないままだが、そんなことはどうでもいい。人間は考える。僕らは考える。

生きるためには考え続けなくちゃならない。明日の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。そうだろ?
(風の歌を聴け p17) 

 そうだね?そのとおり。生の借り暮らしのアリエッティ生活もどこかで終わりを告げるが、それまでは生きるらしく、考え続けるようだ。忙しい世の中だ。こうなると、存在は生を連れ、生は思考を引き出すと結論づけたくなる。加えて思考は存在を導くとか書くと三すくみの構図になって楽しい。別の言葉で表すと、どうどう巡りである。動き出した虎はぐるぐるバターに溶けた。

 エマニュエルはジーナと出会いとんち対決を行うにつれ、彼女が何者であるかを知る。なんのことはない、彼女は彼だった。ピッコロ大王と神様のように二人に分裂していただけだ。異なるのはピッコロは融合していたときの記憶をはじめから持っていたということ。エマニュエルは思い出した。そして真実を知って喜び、浮かれた調子でヤギのベリアルを解放してしまう。ベリアルは悪役。すっごいわるいやつ。全く、少しは慎重になってほしいものだ。そうして暴れ回ったヤギはPKD謹製の初音ミクによってあっけなく死ぬ。存在は消える。

 着地点が見えないまま文章は終わる。存在について考えるのはやめよう。どうやっても答えが出ないし、私の気力が限界を迎えた。融合したピッコロは、「本当の名前を忘れた、ただのナメック星人さ」ともらす。存在なんてそんなものだ。実体はなく、真実は出てこない。答えのない話だった。

 ただ、ピッコロはもう少し早く融合してもよかった。

聖なる侵入〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

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