マトリョーシカ的日常

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煽り耐性の低いリーダー/ローマ人の物語20 悪名高き皇帝たち(四)

 この本を読むまでネロのことをよく知らなかった。暴君ネロという単語のみを知っていて、ひどく辛い食べ物はネロが語源になったのかもしれぬ、などとくだらない思索に時間を費やしていた。

 クラウディウスが毒殺された後、彼は若干十六歳で巨大帝国ローマの皇帝となった。母親であるアグリッピーナはネロをコントロールすべく奮起したが、親譲りの野心家であった彼は好き勝手なことをしでかす。一般市民になりすまして夜遊びに出かけたり、ローマンオリンピックを開催する。あげくの果てには歌手デビュー。「若いから仕方がない」と市民が寛容を示すのは難しい。

 ローマ人の物語を読むうちに、彼は悪いことばかりしていたのではないことが分かった。彼は皇帝として五十四年十月十三日から六十八年六月九日の間在位していたが、初期の五年間は「五年間の善政」と呼ばれた。元老院を優遇する政策やアルメニア・パルティア問題に対するコルブロの起用があったからだ。元老院寄りの政策はネロのブレーン()であったセネカが考案したものらしい。なぜこんなことをしたのだろうか。

 この人には、ローマの元老院という存在が、立法機関であるだけでなく、公職要因のプールであるだけでもなく、今日で言う「メディア」であることが分かっていたに違いない。

 元老院議員は法案の討論をするだけではなく、討論内容を作成するのも仕事だった。古代ローマの時代では、だれでも読み書きができるわけではない。人数が「マス」ではなくてもメディアの役割は果たすことが出来た。世論を構築するのが彼らにかかっていると分かれば、セネカが元老院を優遇したのも理解できる。

 悪い人物ではなかった。そう思う。ただ炎上に対する耐性が低かっただけだ。六十四年の七月、大競技場から燃え上がった炎はローマの広範囲に広がった。ローマの大火である。ネロは復興に全力を尽くしたが、それと同時に私邸の建築にも尽力してしまった。「ローマの大火はネロが仕掛けたものだ」という噂が流れる。悪い噂はただ聞き流せばいいのに、彼は放火犯はキリスト教徒だとして彼らを迫害した。

 六十八年の六月九日、ネロは自死する。元老院から「国家の敵」と宣言され、ローマ市民である近衛軍団からも背を向けられた。逮捕のため差し向けられた兵から逃げに逃げての最期だった。こうしてアウグストゥスがはじめた「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。血の断絶は帝国の終わりか、否か。ガルバへ続く。