記憶はかすんでいく。思い出はすたれていく。衣類に染み付いたタバコの匂いは消えなくとも、そこから彼らを確かめることが少なくなる。最近は、湯船につかるのが億劫になり、だいたいはシャワーで済ましている。温水を出しっぱなしにしながらうなだれていると、なぜか昔のことを思い出す。学生時代に行った場所や食べたもの、考えたことなど。「そんなこともあったな」と、ぼうとしているとそれらはあっという間に流されてしまって気がついたら仕事のことばかり考えている。
タイムカードの外で会社を思い煩うのは不健康だ。なにしろ人間はバランスの生き物だから、あっちへいったら次はこっちと重心を一定に保たなくてはいけない。僕が立っている土俵は意外と狭い。目が前にふたつついているのは、前へ前へと進むためだが、それゆえ踏み外す危うさを持っている。なんと恐ろしいことか。危険性を除去するために、仕事以外のことを考える。意識して仕事を取り除く。本を読むことはその手段の一つだ。
『道徳形而上学入門』は難しすぎた。あまりにも難しいため、文字は思考の表象をただすべりし、アイスバーンと化した大脳新皮質の上をスライドしていくだけだ。全く染み込むことがない。仕方がないのであとがきを読んで、今回の読書は済ませることにした。つづきはまたいつか読もう。あとがきも難しかったが、この言葉だけはよく響いた。
カントはまた哲学に関してこう発言している、——客観的な、すなわちすべての人が承認するような哲学の体系は、具体的には存在しない、従って哲学は学習されるものではない、私達はただ哲学的に考えることだけを学び得るのである、と。してみると哲学的に物を考えるということが、すなわちカントの哲学であると言ってよい。
哲学的な思考とはなんのことか分からないが、とにかくそういうものなのだろう。数字や図を使わず、文章のみで思想を表現する。そんな哲学の姿勢に感心する。僕はとにかく図を描かないと説明できないし、理解も浅い。彼らのように言葉だけで世界を構築できるのなら、なんて素敵なパラダイム。回路の配線をひとつずつはんだづけするように、明確な意志を持って概念を規定する。立派なラッパー、プログラマー。歯間に挟まるコバンザメ。
- 作者: カント,Immanuel Kant,篠田英雄
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