会社を出ると同時に雨が降り出した。先々週に買ったビニール傘を開いて歩道へ出た。久しぶりの雨音に少し心が休んだ。いつもすれ違う定時マンがきょうはいなかった。きっと車に乗り家路を急いでいるに違いない。定時マン2もいなかった。きょうは有休を取ったのかもしれない。雨が降ることを見越して? まさか。
ふと振り返ると、自分の原点がつかめなくなることがままある。今だってそうだ。ぼくの起源はどこからで、どのようなスタンスで人生に挑めばいいのだろうか。母親のお腹から生まれてくるときに、天上天下唯我独尊と宣言すればよかったのかもしれないが、残念なことに当時のぼくはそれほど喋るのが得意ではなかった。今でもそうだが。おぼろげな記憶から全てを呼び起こすほど困難なことはない。観測には媒体が要る。そして媒体越しに覗いたイデアは決してイデアではない。再生するほどテープは擦り切れる。記憶はすり減り、思い過ごしでかさが増される。
思い出がそれなのだろう。
世界は現実性の核を喪失していた。色は不自然で、細部はぎこちなかった。背景ははりぼてで、星は銀紙でできていた。接着剤や釘の頭が目についた。
旅行先で目覚めると、見知らぬ天井が僕を迎える。違和感が凝縮しゼロ距離のはてなが飛び出す。なにかがはじけると、だんだんと記憶がつぎたされて、うすめのコーヒーが仕上がる。「そうか、ここは家ではない」「昨日から旅を始めたんだ」新鮮な朝がそこからはじまる。
そのような現象は程度のさこそあれ、毎日起こっている。変化が微弱で皆がそれに気づかないだけで。確実にねじれていく何かは現実世界に応力を与える。うまれたひずみは、あるときに爆発し、世界のありかたを瞬時に変化させる。「現実性の核の喪失」である。
『スプートニクの恋人』を何度も読んでいる。読書をすると、細かな結晶が頭にできてわずかににごったり沈殿する。それをすくいあげる作業はなかなか困難だが、さすがに三度も読み返すと『スプートニクの恋人』ではたやすくなる。しかし、すくいあげたものが何の役に立つのかと聞かれると答えにつまる。正直にいうと、全く役に立たないのだ。このフレーズをつぶやいたところで、何の影響も及ぼさない。だれの利益にもならない。
ぼくはその脈絡のない眠りの中で——あるいは不確かな覚醒の中で——すみれのことを考えた。ぼくと彼女がともに過ごしたさまざまな時間と空間が、古い字代の記録映画のように断続的に頭に浮かんだ。しかし多くの旅行者が行き交う空港のざわめきの中にいると、ぼくとすみれが共有した世界はみすぼらしくて無力で、正確さを欠いたものに思えた。ぼくらは二人とも知識を持たず、それを補うための技量も持たなかった。依って立つべき柱もなかった。ぼくらは限りなくゼロに近かった。ひとつの無から別の無への段差を流されているだけのちっぽけな存在だった。
利益にもならない。不思議な表現だ。利益が出ることが当たり前で、しかも利益が良いものだときめつけている。利益とは利する益だ。つまりはいいことなのだ。そうかな? そのとおり! じゃあ、その利益は僕をどこへ連れて行くのだろう。人工衛星は爆発的な火力をもって、大気圏を突破した。その先は何か。虚無だ。何もない空間へいくために、人類は各自努力する。DNA単位で頭が弱いのかもしれない。本当は何かがあるのかもしれないが、ぼくはそれを見いだすことができない。
- 作者: 村上春樹
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