マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

【書評】ラッパーリルケと不可避な草原/「リルケ詩集」【感想】

答え合わせなんていらなかった。あの夏の宿題。

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 詩は読み物ではない。そこに答えはなく、謎もなく、事実もない。ただの文字の羅列が延々と見開きに横たわるだけであって、何かを学び取るようにもできていない。すなわちオレンジ踊るように僕らは文字の海をただようばかりなのだ。苦しみもなく、悲しみもなく、優しさも、力強さもない。ちょうど生まれたばかりの子鹿のように自然の鼓動に抗うことなく、リズムに乗って足をびくつかせる。

呼吸よ、目に見えぬ詩よ!
絶えず自分自身の存在のために
純粋に交換された世界空間。
リズムと共に私が私を成就していゆくための対重。

—『リルケ詩集』オルフォイスに寄せるソネット—

(どこかラップ調。)

 ライナー・マリア・リルケは1875年にプラハで生まれた。幼いときに両親が離婚し、陸軍学校で寮生活を送るも病気を理由に退学。自宅で勉強し二十の時にプラハの大学へ入る。ルー・アンドレアス=サロメと出会い、1901年に結婚する。しかし翌年妻子と別居し、彼はパリに出る。ロダンに会って小説を書く。そのあとは各地を転々とし芸術家たちと交流し、1926年に死んだ。

 とまあ、これは巻末の解説者の言葉をそのまま語っただけだ。前情報を得てから詩を読めば、詩の理解度はぐっと上がるし大変オススメ……、そんなわけない。全くない。詩を読むことは答えのない文字の海をバタフライ感覚で犬かきをすることだし、二天一流の祖である宮本さんから届くお手紙を読まずに食べることに等しい。情報など無価値だ。いや、有害ですらある。

 詩と対峙するときに肝要なことは、何も考えず読み通すことだ。気を張る必要はない。相手は自分の人生をかけて言葉をつむいでいるのだ。数時間の読書で彼らの思想を読み取れる訳がない。断片。心に残った断片だけを書き留めたり、そらんじたり、マーカーを引っ張ってみる。年月を置いて、何度も読み直す。ときどき巻末の彼らの年表に目を通す。少しずつだが、作者と僕らの距離が縮まっていく。

 この感覚がたまらなく心地よい。

 詩は作者の年表だ。ひとつひとつの作品には、途方もない年月の隔たりがある。何ヶ月何年、何十年の時間間隔に、彼らの思想は変遷し凝縮し拡大し、疲弊し凍結し洗練される。

 芸術家の年表はエキセントリックで読むだけで面白い。詩に目を通したら年表を読んでみよう。彼らの文脈を共有できる気がしてくる。世界と繋がってくる。

 へへ、クロームキャスト欲しい。

リルケ詩集 (岩波文庫)

リルケ詩集 (岩波文庫)