マトリョーシカ的日常

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【書評】長期休暇明け、僕は「会社員」にすぐに戻れるのだろうか。/「時は乱れて」【感想】

長期休暇明けが怖い。

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 今日から連休に入る。学生のころよりは短いが、最近は時間に対する感覚が鋭くなったので大切に使っていけるはずだ。しかし、台風の影響で家の周囲は猛烈な雨に襲われており、今日は外出することができない。ゆっくりしていよう。コーヒーを飲み、野菜ジュースを飲み、本を読む。youtubeで適当な音楽をさがしてかけてみる。お気に入りの椅子に座ってこうして文章を書き連ねていると、自分が会社員であることを忘れてしまいそうだ。一日でこうなのだから、長期休暇明けは体にかなりの負荷がかかるだろう。家と会社、自由人と会社員、どちらが本当の自分なのか分からなくなりそうだ。

 今朝は『時は乱れて』を読んだ。例のハヤカワ文庫のPhillip.K.Dickシリーズの一冊で、表紙は黒地に赤みがかったベージュでされている。レイグル・ガムは新聞の懸賞クイズ、<火星人はどこへ?>のチャンピオンだ。彼は定職に就かずに、数年前からこのクイズを解いては懸賞金を得て生活をしている。変わり映えのない日常を過ごしながらも、彼はどこかに違和感を抱いていた。この世界は本当に実在しているのか。自分は実は全く別の存在なのではないか。記憶は確かなのか。

 そんな折に、弟夫婦の子供が廃墟から古びた電話帳を拾って来る。真実を告げる鐘の音が聞こえる。

存在とショートロング期間

 存在がなにをどうたらしめているんだ——なんて、数えきれないほどの哲学者が考えていることだ。僕もときどき考えるし、みなもきっとそうしている。それはきっと人と違うことをしていたい、という見栄っ張りな側面をもっているはずだ。でも、実のところは自分のありかにくさびを打っておきたいと思うからでもある。怖いからね。

彼の立てた仮説とはこうだ。自分たちがいるこの現実は、ある意味で一時的なものであり、実際には、みな、どこか別の場所で人生を過ごしてきた。そして、誰ものその”別の場所”を憶えてはいない。

 世界は五分前に誕生している、という仮説を聞いたことがある。「そんなの嘘に決まっている」と、言うかもしれないが果たしてどうだろう、断定なぞできない。一時的なその場限りの場所や時間や人や物。旅の恥は搔き捨て。永続性を投げ打って、みなは自分の存在を確かにしてきた。このあたりは人間の面白いところで、一方で、全知全能永遠不滅の神を求め、他方ではこうして搔き捨て搔き捨てスポットを照らす。奇妙なバランス感覚ではある。

静止と運動

 さて、レイグルは今の環境から文字通り抜け出すことにした。スーパーマーケットに食品を仕入れる大型トラックを盗んで、遥か遠くへ旅立つのだ。遠くと言っても百キロ向こうの話なのだが、僕の生活圏は半径十キロで事足りるので何も言えない。車を運転しながら、そこでも彼は不思議な考えをもつ。

 もしかしたら、わたしは動いていないのかもしれない。”場所と場所の間”にとらえられているのかもしれない。砂利の中で空転するピックアップトラックの車輪……なすすべもなく永遠に回転しているだけのタイヤ。動いているという幻想。

 『時は乱れて』は空想世界と実在世界の判別が難しく、時間感覚もふっとばされる小説だ。この要素はFKDの作品には随所に観られるが、この小説はその成分が濃い。読んでいくとはてながたくさん浮かぶが、訳が分からなる。しかし、それでも読み通せるのは、彼が生み出す不思議な世界観のせいだろう。

 腹が減ってきた。何かを食べよう。おわり。

時は乱れて (ハヤカワ文庫SF)

時は乱れて (ハヤカワ文庫SF)