一年後に同じものが書けるか
今日も単発のバイトを入れた。現場はこの前と同じで、エヌ氏が経営している会社の工場だ。卵の腐ったような匂いと機械油の匂いが入り交じってなんとも不思議な高揚感を得ることが出来る。ちょっと危ない。作業は先日のものとは異なったが、空き瓶の上にふたをつけるという単純な作業だった。この現場には相対性理論というものが働くらしく、始業から十一半時までは早いのに十二時までの残りの三十分が異様に長いという現象がまま起こる。周りの人は気づかず働いていたが僕は気づいた、いや気づいてしまったというほうがいいか。どうにもならない。
この現場の良いところは昼休憩が長いというところだ。一時間二十分もあるので僕は持ってきた本をいそいそと読むことにした。「若い読者のための世界史(下)」では巻末に五十年後のあとがきとして著者が当時自分が書いた内容についていろいろと述べている。驚いたのがこの本を書いたのが彼が二十五歳のときだというのだ。二十五というと一年後の僕である。果たして書けるだろうか、いや書けないだろう。
そういえば僕の父も僕くらいの年齢のときに本を出していた。身内バレが激しいのでここでは紹介しないがおじと共同で書いたものらしい。いつだったか一部もらい受けてさらっと読んではみたが、専門的な内容すぎてよくわからなかった。家の家系は筆まめな家系らしく、父方の祖父も母方の祖父も備忘録的ななにかを書いて自費出版している。
僕はどちらの祖父とも密度の高いコミュニケーションをとっていない。そんな僕にとっては彼らの書いた本を読むことが、彼らとの対話に繋がる。本を読むというのは対話であるとどこかで聞いたけれどまさにその通りだ。
いつか自分も考えたことをアウトプットして世に公表したいなぁと思った。
これじゃん。