マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

未だ展開しない思想

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Mountain, sky, alp and fog HD photo by asoggetti (@asoggetti) on Unsplash

 それぞれが文章を装備して生きている。そのようなことを考えた。いくらかの残業をしたあと電車に乗ると人々はまばらだった。じっと外を見つめたが何もなかった。そういう時間だった。結局のところ、私の人生はなにをもって正解となすのだろう。自身の充足感はどこで得られるのだろう。渇きとか飢えとかいう成分を利用して創作を行っている気がしてならない。もっとうまいやりかたがないかと探している。

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月日は百代の過客だ。知らんけど。

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Coffee on table with spoon photo by asoggetti (@asoggetti) on Unsplash

 日々が流れていく。流れるというのは連続的であり規則的なイメージをもつそれであって、私が観測可能でなくてはならない。果たしてそれは流れているのか。乗るべき電車がホームに滑り込んできて、思考はそこで遮断された。ここしばらく文章を書いていなかった自分は、どこか宙に浮いているようで空気のよどみの一部のようである。それが何を意味するかはしらない。

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非物質的なアーク溶接棒


Photo by Laszlo Kiss on Unsplash

 そして人がこのことから引き出す結論は、生きた命題にするために死んだ記号に加えねばならぬものは、単なる記号とは別の性質の何か非物質的なものである、ということになる。
 しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用(use)であると言うべきであろう。
ウィトゲンシュタイン 「青色本」 p016

 私をとりまく生活の中で様々な変化があったはずである。いくつかの手続きと諸々のやりとり、種々の長さの線の貼り付けや除去などがあった。どうしても抽象的になってしまい、なんとなしに他人事になる。以前の職場ではこのような癖が悪い方向へ出てしまい、身動きがとれなくなっていた。いまはどうか分からないが、涼しげな風が吹いている。

 ひたすら溶接をしていた。2.3mmの鋼板を折り曲げて箱をつくり、つなぎ目を溶接で止めた。溶接棒と対象物の距離を絶妙に保ちながら、火花の量を調節した。溶解した金属は隅でかたまって、その跡がミミズのようになった。これが正解なのか、不正解なのか。どちらでもないのだろう。

 意味とはなにか。意味とは使用である。はじめに意味ありきではなく、使用されるにつれてその本質が浮かび上がっていく、いやそんなものではない。本質などないのだ。使用。

書き出しのみで構成される文脈

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S T A R T R A I L photo by Samuele Errico Piccarini (@samuele_piccarini) on Unsplash

意味に立ち向かわなくてはならないが、私はそれに気をやることができない。どうあがいても夏は終わってしまい、短い季節がそこにある。ここは何処か。

四分という短い乗り換え時間をやり過ごし、私は電車に乗った。ドアが閉じて車両が動き出すその瞬間に、後ろ髪を引かれた。景色はどこまでも未知であったし、等しく何も与えなかった。

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